【第6回:哲学のの出会い】スピリチュアルについてー人生の「お役目」を知りたい。

スピリチュアルという新鮮な言葉を最近知ったので、YOUTUBEで検索してみた。人生の「お役目」を知りたいというタイトルのYOUTUBEの内容を見た。

そのYOUTUBERが伝えていることは人生のお役目は探すのではない。

下記⑧番のことをコツコツやっていくとお役目に沿ったことがおこりますといっている。

スピリチュアルには定義が無いため、具体的になにが言いたいのかわからなかったが、直感的に気になった。

とりあえず、頭の整理のために備忘録として残しておきたいと思う。

 

①小さいころから続けていること

ゲーム。

自分がやりたいことを人の思い通りにはさせないこと。

嫌いなことはやらない。

嫌いな人間とは付き合わない。

好きなことをやる。

集団行動はしない。

人の意見は取り入れない。

 

②ずっと興味があるテーマ

パソコン

プログラミング

宇宙

将棋

ゲーム

ベトナム

インドネシア

語学の勉強

哲学

戦争

歴史

 

③腹が立っていること(理不尽なこと)

権力者の横暴

義務教育の強制

社会のシステム

会社で働くこと

人間関係構築

ルール

法律

規律

空気を読むことを良いとされること

常識

偽善者

人間の存在そのもの

自分が洗脳させられること

マスコミ

新聞

本音と建て前を使い分ける人間

 

④育った環境で普通とは違ったこと

裕福な家庭

過保護

親の強い影響で会社勤めをした。

海外生活が長い

人間の敵を沢山作った。

パワハラやいじめを受けた経験が山ほどある。

 

⑤尊敬している人

本物の哲学者達

エドワードスノーデン

ほりえもん

ティーブジョブス

人生、自分の意志・信念・やりたいことを貫ける人

 

⑥住みやすい社会・国

そんな社会は実在しないと思っている。

自分で自分の居場所を作るしかない。

 

⑦死ぬときにやり切ったと思えそうなこと

他人に洗脳されない

自我を押し通し続ける

好きなことを仕事にする

プログラマーとして仕事を続ける

人とは群れない

サラリーマンは死んでもやらない。

 

⑧明日からできる小さいこと

プログラミングの勉強を続ける

ブログを書き続けること

 

以上、気になったため、ただのメモ。

 

【第五回:哲学との出会い】幸福を得るため思考停止状態になり人生の本当の目的を捨てるか、もしくは不幸となるができる限り自分らしさを追求し、人生の達成感を得るか

満足する人生はどちらか、真逆のとなる2択の考え方がある様に思う。

 

①幸福を得るため思考停止状態になり人生の本当の目的を見失うか。

もしくは

②不幸となるができる限り自分らしさを追求し、人生の達成感を得るか。

 

私は②の考え方で生きたい。自分の人生の最後に苦しかったけど、自分の考えを終始一貫できたという他の誰にもない達成感があり、また「人間として」全うに生きたなという実感が持てる気がするからだ。

 

ちなみに①の考え方で自分が生きると想像すると吐き気が出るほど拒絶反応をおこしてしまいそうだ。

幸福になるというのは、とても聞こえは良い。しかし、これは欲望にまみれた、動物的思考であり、非理性的思考であり、知能を持った人間として生きることを放棄している様に思う。

わかりやすい例えを言うと

【お金へ執着すること】

お金で問題を解決出来てしまうから、お金がもっと欲しい、人の意志や労働力はお金で買える、自分でやる色々な面倒くさい作業は人にお金を払えばやってくれる、インターネットや本で自分の頭を使って調べ事をしなくてもお金を払って人に聞けば解決できる。一時的な快感を短期的に繰り返し得るが、いくらお金が会っても心の中は満たされない、むしろ自分が満足できる欲の基準を上げ続けることとなり、満足基準より下回ることを必死に避けることが生きがいとなってしまいそうだ。自分の欲を満たすことばかりに思考を取られてしまうだろう。

【大多数派・権力者の意見に従う】

自分の考えを通しても、世の中の流れに逆らうことになり、反って自分が苦労をすることになり、しんどくなりそうだから、「長いものには巻かれよう」といった根性の曲がった思考。こういった思考よりまだ奴隷の方がましだ。奴隷は自分の意思があっても強制的に働かされるそうしなければ殺されるため、自由の意思がない。しかし、自分の人生を自由に決められる立場にあるのにも関わらず、大きな権力の前に屈し、自分の意志で考えることを放棄するようなことは人間として命を授かったことに対する自分自身に対する冒涜であると思う。

 

一度きりの人生なのだから、絶対に後悔したくないという気持ちが強くこのような考え方に辿り着いた。

 

 

 

 

 

 

【第四回:哲学との出会い】強い信念をもつことと、生活していくということは切り離して考えなければいけないなぁ

自分が約1年前まで、労働者として働いていた頃、

人生をどう生きよう、どういう人間になりたいかということを真剣に考えたことが無かった。何故なら、会社の就業時間によって、自分の毎日のスケジュールが全て埋まってしまい、また、目標も会社の中の昇給や出世でしか選択肢がなかったからだ。また、真剣に人生について考えなくても、毎月定額の給与が口座に振り込まれることで、命と生活との保証までされていたからだ。(これも社会の洗脳によってそのような気にさせられていたのだと感じている)

 

ただ、それでも自分は会社で働くことに耐えきれなかった。国家・権力者は全ての国民を個性や、特徴をもった一人の生きている人間だということを無視している。労働者のことをロボットの部品のように、いつでも替えの利く消耗品として扱い、権力者の思い通りに機能しなければ、会社から追い出す。

人のことをなんとも思わないのか・・・

自分は我慢の限界がきてしまった。

 

会社を辞めた。

 

これからはフリーランスとしてやっていきたい。

ただ、自分に何ができるのかまだ自信をもって言えない。

今は独学でスキルを少しずつ高めている。

WEBデザインの勉強や、こういったブログを書いている。

ただ、道を自分の力でゼロから敷いて行く覚悟がまだ足りない気もする、自分の人生がどの方向に向かっていくのだろうと悩む毎日だ。

 

自分が生きていく上での信念は持てるようになったが、

生活をしていけるとは切り離して考えなければならない。

 

いつになったら頭がすっきりするのだろうか。

人間は一生、悩みながら生きていくのだろうか。

 

【第三回:哲学との出会い】脳を元気にする思考方法

この思考方法に辿り着くまで、かなりの時間と労力をかけてたが、

正常な状態に戻すためのかなり効果的であると確信できた。

 

脳を元気にする思考方法=【切り離し思考】(と勝手に命名する)

 

 ①自分 と 自分以外 の切り離し。

「空気」や「常識」、「社会」という中に自分が存在していて、周りの人間と共存、依存しているという、思考(ただの思い込み?)を捨てること。

世の中を全体として自分がその中の一部であると捉える思考方法は、自分自身を強大な渦に飲み込ませ、洗脳されやすい「体質」にしてしまう。

自分は自分、他人は他人、社会は社会、それぞれを区別して考える癖をつけることが大事。自分の体は物理的には社会の中にあるが、心は社会とは離れ、自分独自の世界感をもち、その世界の中では外部干渉を受けないというイメージである。

 

②事実と感情、意見を切り離なす。

これは出来てあたり前のことだと思っているのだが、自分が今まで見てきた人間の大半が出来ていない。

自然に出来て当たり前のことであるから、どうしたら出来るようになるのかはうまく説明できない。

ただ、言えるとすれば常日頃から自分の頭を整理し考えて発言することだろう。

正直、事実と感情、意見を切り離して考えられないこの世の大半の人間と会話をするのは、相当しんどいことなのだ。

 

【切り離し思考】の絶大な効果とは簡潔に言えば下記3点である。

・頭の中に蓄積した大量の不要なゴミ情報を捨てられる

・心の負担が和らぐ

・絶対的自分の脳内の精神的空間を作ることによって自分の心を守る ことが出来るようになる

 

続く

【第二回:哲学との出会い】権力者の陰謀(洗脳教育によって従順な労働者を大量生産するシステム)

最も恐ろしい手口は、まだ考え方がしっかりしていない幼少期からの「洗脳教育」である。

しかも義務教育から始まり、大学まで続く、

また、テレビや新聞のマスメディア、社会人になっても会社の中でも更に洗脳はエスカレートしていく

 

①誰によって仕組まれているか

国家・資本家・権力者

 

②何のために洗脳教育をするのか

従順な労働者を生み出すため。

持続可能な社会でありつづけるため。

人を豊かにするために社会があるのではなく、社会を生かすために人間を使うという本末転倒しているが、そういうこと。

 

③洗脳教育の結果、人々はどうなってしまうのか

人間個々の個性は失われ、人間個々がもっている考え方(自分の力で考える力)を弱められ、思考停止状態にされ、権力者にとって都合がよいとされる考え方「常識」を植え付けられる。

一人の人間として生きていく上の信念という軸をを骨抜きにされてしまうのだ。

 

④洗脳教育のプロセス。

1.教育を受ける過程で世の中の常識という偏見を、教え込まれる。

2.社会人になってからも周囲からの常識圧力を受け続ける。

 

続く

【第一回:哲学との出会い】自分の中に哲学を持つということ

今のタイミング(突然なのか?、必然なのか?わからないが)で書くことで頭の中を整理したく、たまたまブログという方法を選んだ。他人のブログは数知れず読み、自分も書きたいと何度も思っていたが、そうすることが逆に、自分の心の核に触れることを無意識的に恐れていたため行動に移すことがなかったのだ。

だが、今は自分の心に真摯の向き合えるようになりつつあるのだと感じている。新鮮で前向きな気持ちになってきている。

また、ブログという手段を用いることは、外から侵入不可能な閉鎖的な世界の中で誰からも作業の邪魔をされなくて済むため、心の安定感が保たれることを嬉しく思う。

 

前置きはこれぐらいにしておくとして、

本題の「自分の中に哲学を持ちたい」について下記する。

①自分にとっての哲学

哲学とは、人によって解釈は千差万別であるため、簡単には説明できない。ここでは、自分に対しての哲学、自分の人生を豊かにするという目的のために、人生を自分らしい考え方で生きるための最も大切にしなければならない信念であると捉える。

因みに何かを信じて生きていくという意味で、哲学は宗教的思考とは似ている概念があるが、根本はそれとは違うと思う。

例えば、聖書のように、他人によって定義、解釈された思想を無条件で信じるということでは無いと言いたい。

自分が思う哲学とは、自分自身の人生において経験と知識から思考を練り上げる。更に、常に新しい考えを強くし、更新していくことを生涯続けていくという思考方法である。

②哲学を学びたいと思ったきっかけ

主に日本社会で育った影響で、義務教育や会社、周りの人間たちの「偏った」意見、いわゆる「常識」とみなされているが考えが「毒」を注入されているかのように、気付かない間に脳内へ侵入し続け、思考回路の中枢プログラムが書き換えられている様なイメージで「脳生命の危機」を感じてしまっている。脳内の正常な思考と洗脳思考されてしまった思考が脳内で複雑に絡みあっており、長年苦しみ続けている。

それが、今となって、生き残っている正常な脳細胞が生命維持のためSOS信号を発し、激しい防衛反応をおこし始めているのだ!

洗脳部分を取り除く作業を本格的に始めなければ脳が殺されてしまう!と訴えてかけているのだ。

 

このような経緯で脳内の「解毒方法」として、とても効果的と思う「哲学的」思考を抗ウイルス剤として投与し始めたのである。

 

次回に続く